水を得た魚。美しく泳ぎ回れ。さもなくば命はないぞ、と、脅されているようだ。喉を与えたのだから歌いなさい。指を与えたのだから弾きなさい。足を与えたのだから踊りなさい。わたしたちはみんな神様の娯楽の一つでしかないのだ。神様はどこにいるの?誰なの?わたしたちを創り賜うた神。わたしの為にせいぜい従順に生きなさい、と、暗喩。懸命に生きている姿を、あなたは水槽の中の金魚を見るのと同じような気持ちで眺めているのでしょうね。到底わたしの思考に追いつけるはずなどないのに、と。 目をあけると菊が眠っていた。彼の静かな空気に飲み込まれたいと何度思ったか。しかし彼の世界は彼だけのものなのだ。わたしは菊にはなれないし、菊も菊以外にはなりえない。この世の中には、こんなにも人間がいて、わたしという人間はわたし以外にはいないのだろうか?ドッペルゲンガー?死ぬ前に会ってみたいな。嗚呼。思考はめぐる。 「・・・何か、また、考え事をしていらっしゃるんですか?」 「菊、」 菊が目を覚ました。がたん、と列車が少し揺れた。外の景色は相変わらず緑色の自然が広がっている。がたんがたんがたんと規則的に揺れる電車はゆるい眠気を誘った。座ったまま眠っていた菊は少し動いて体をほぐしている。ぽき、とどこかの骨が鳴った。 「菊、起きたの。」 「こんなところではぐっすり眠れませんからね。」 「うん。」 「何か、考えてらっしゃったのですか?」 菊の真っ黒な目がわたしの目を見据える。きれいなめ。ミステリアスな目。その目に飲み込まれたいの。菊の目で世界を見てみたい。一体どう見える?わたしはどう映る?しつこい女に見えるだろうか鬱陶しい女に見えるだろうか嫌な女に見えるだろうか。何が見えるの?何が美しいの?何が汚いの?何を愛おしむの?綺麗な目よ。 「わたしはわたしにしかなりえないのだから、他人に憧れるのは無駄なの?」 「無駄だと、思うのですか?」 「意味がない、でしょう。」 「なぜ?」 「わたしは生まれてから死ぬまでずっとわたしなの。菊は生まれてから死ぬまでずっと菊。それ以外の何者でもないの。あなたになりたいと思ったって決してなることはできない。決して他人にはなれないの。絶望だ。」 「どうしてそんなに他人になりたがるのですか?」 「他人が好きだから。」 「自分は?」 「好きだと、思う?」 「他人に憧れる気持ちは、わかりますよ。」 菊の真っ黒な目が少し揺れて窓の外の景色を見た。わたしの憧れる菊も誰かに憧れているの?もし出会ったら、わたしもその人に憧れるだろうか。しかし過去に、好きな人の好きな人だからといって好きになれたわけじゃなかった。菊から憧憬の気持ちを寄せられるその人、に、わたしは嫉妬してしまうかもしれない。憎んでしまうかもしれない。菊の視線を奪うその人に。嫌な女。ごめんなさい菊。素敵な菊。 「確かにあなたはあなた以外にはなれないかもしれません。しかしあなたのその憧れという気持ちは、あなたが憧れるその人にあなたを近付けてはくれます。」 「綺麗事ね。」 「わたしだって近付きたいのです。」 「菊の憧れる人、に。」 「ええ。だからこうでも考えていないと、狂ってしまうでしょう。」 自分の無意味さに。 と、呟いて菊は少し微笑んだ。狂気、嗚呼、狂気か。ほんの少しの狂気とそれを隠そうとする菊がわたしが見つめていたい菊なのだ。菊は菊以外にはなりえない。菊以外にはならないでほしい。憧れに近付こうともがく菊が愛しいから。憧れの人になってしまっては菊ではないのだ。そしてわたしも菊になりたいともがいている。もがくわたしを誰か見てくれているだろうか?わたしが菊を見ているように。 水を得た魚 |